おやごころ かみごころ

金光教の教会で御用させて頂く日々の中で感じた神様の話

苦労は宝


f:id:fonwaka3:20201022141426j:image

 

 

 

今年は母がお国替えさせて頂き

その後を継がせて頂いて15年という節年

新型コロナウイルス感染症禍の中

6月に先代教会長の霊祭を

ささやかながらお仕えさせて頂くことが出来た

 

そんな折り

とある所でお話の御用を頂いた

この節年に自分自身のこれまでの

信心の変遷とおかげの道筋を振り返る

良い機会を頂いた

 

講題の中に

「苦労は宝」という言葉を入れさせて

頂き、お話の御用に使って頂いたら、

 

ある方から

「しなくてもよい難儀」といわれる一方で「苦労は宝」といわれるのはどういうことか?という趣意の質問があった。

思わず「す、するどい」と心の中でたじろいた(笑)

思いっきり矛盾してるね、言葉だけだと

 

その時はなんだかうやむやに返答してしまったが、

その後

そのことが頭から離れず

なんと答えれば「正解」だったかと思い巡らしている

 

「しなくてもよい難儀」というのは

今、昔の自分を振り返って

しなくてもよい難儀を沢山してきたなあと

思う事実であるし、

 

「苦労は宝」というのは

結局、これまでの自分を振り返って

色々苦労したけれど

それは真のおかげを受けるために

わたしには必要で

かけがえのないものでしたということ

 

やっぱり矛盾して聞こえます?(笑)

 

信心はたやすいものじゃが、みな氏子から

難しくする

と、み教えにあるように

信心しながらも、我欲にまみれ、

歩むべき道を見失うということが

わたしにはよくあったので

(多分これからもある笑)

 

例えば「真のおかげ」という高見に登りきって

これまでの自分の信心の歩みを振り返ったときに

苦労して苦労して登ったクネクネ道だが、

実はその道にそうようにまっすぐな道も実はあり、

なーんだここを素直にまっすぐ登れば

良かったんやーんと高見から見たとき改めて分かる、私ってお馬鹿さん😆みたいな。。。

 

そして、

かなり遠回りしたけど、

クネクネと苦労したおかげで、

様々な景色や道端に咲く花を

見つけることが出来たし、強靭な?体力も

身に付いた

これはこれからの私にとって

かけがえのないものになった

 

みたいな。。。

 

うーん、分かりづらい(笑)

 

 

さて最近は、

秋の生神金光大神大祭に向けて

娘と舞と箏の稽古にいそしんでいる

 

母がお国替えの時、娘はわずか生後2ヶ月

今は高校一年生

最近、大人になろうと思う。という決意のもと

真面目に稽古に取り組んでいる娘(笑)

お広前でその舞姿をみながら

ああ、このお広前でよく泣いたなあ

お母さんも私も、そしてきっと神様も。。

と改めて感慨にひたる

 

そして、クネクネ曲がりながらも

正しい方向は見失わず

まっすぐな道筋に沿いながらここまで

登ってこれたのも

親の信心の徳と

御本部広前に始まる手続きの祈りと

お導きを頂いたからこそ

と改めて感じている