苦労は宝
今年は母がお国替えさせて頂き
その後を継がせて頂いて15年という節年
6月に先代教会長の霊祭を
ささやかながらお仕えさせて頂くことが出来た
そんな折り
とある所でお話の御用を頂いた
この節年に自分自身のこれまでの
信心の変遷とおかげの道筋を振り返る
良い機会を頂いた
講題の中に
「苦労は宝」という言葉を入れさせて
頂き、お話の御用に使って頂いたら、
ある方から
「しなくてもよい難儀」といわれる一方で「苦労は宝」といわれるのはどういうことか?という趣意の質問があった。
思わず「す、するどい」と心の中でたじろいた(笑)
思いっきり矛盾してるね、言葉だけだと
その時はなんだかうやむやに返答してしまったが、
その後
そのことが頭から離れず
なんと答えれば「正解」だったかと思い巡らしている
「しなくてもよい難儀」というのは
今、昔の自分を振り返って
しなくてもよい難儀を沢山してきたなあと
思う事実であるし、
「苦労は宝」というのは
結局、これまでの自分を振り返って
色々苦労したけれど
それは真のおかげを受けるために
わたしには必要で
かけがえのないものでしたということ
やっぱり矛盾して聞こえます?(笑)
信心はたやすいものじゃが、みな氏子から
難しくする
と、み教えにあるように
信心しながらも、我欲にまみれ、
歩むべき道を見失うということが
わたしにはよくあったので
(多分これからもある笑)
例えば「真のおかげ」という高見に登りきって
これまでの自分の信心の歩みを振り返ったときに
苦労して苦労して登ったクネクネ道だが、
実はその道にそうようにまっすぐな道も実はあり、
なーんだここを素直にまっすぐ登れば
良かったんやーんと高見から見たとき改めて分かる、私ってお馬鹿さん😆みたいな。。。
そして、
かなり遠回りしたけど、
クネクネと苦労したおかげで、
様々な景色や道端に咲く花を
見つけることが出来たし、強靭な?体力も
身に付いた
これはこれからの私にとって
かけがえのないものになった
みたいな。。。
うーん、分かりづらい(笑)
さて最近は、
秋の生神金光大神大祭に向けて
娘と舞と箏の稽古にいそしんでいる
母がお国替えの時、娘はわずか生後2ヶ月
今は高校一年生
最近、大人になろうと思う。という決意のもと
真面目に稽古に取り組んでいる娘(笑)
お広前でその舞姿をみながら
ああ、このお広前でよく泣いたなあ
お母さんも私も、そしてきっと神様も。。
と改めて感慨にひたる
そして、クネクネ曲がりながらも
正しい方向は見失わず
まっすぐな道筋に沿いながらここまで
登ってこれたのも
親の信心の徳と
御本部広前に始まる手続きの祈りと
お導きを頂いたからこそ
と改めて感じている