おやごころ かみごころ

金光教の教会で御用させて頂く日々の中で感じた神様の話

妥協と思い分け


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気がつけばもう師走

今年もブログのほうは あまり更新が出来ずじまいだった。

実生活では 今年は例年に増して色々なことが起きた年だったし よく動かせて頂いた年だった

昨年教会の100年祭を無事に終わり

ホッとしたのもつかの間で  

今年の年頭頂いたみ教えは

「打ち向かう者には負けて時節に任せよ」 だったので 一体誰が打ち向かってくるのだろうと 戦々恐々な気持ちでいた。

 

実際に打ち向かってくる者、また事は

思いの外沢山いて、或いはあって

昨年一歩進んだかに思えた自分の信心も

今年は二歩くらいは下がった心地もしている

 

大ざっぱに振り返ってみる

 

年始には母方の叔母がお国替えした。

 

春の御本部大祭の前夜では 先輩方のご配慮を頂き初めて親箏をさせて頂いた

 

独居となった叔父は街の方へ引っ越した

舅が怪我を負って入院した

 

夏には小6の長男の反抗に悩まされ

秋には次男が喘息の発作で入院し(おかげ頂き元気にならせて頂きました。)

 

その後には父の20年祭をお仕え出来た

そして冬になり

舅が再び倒れ只今入院中(おかげを頂き日に日に快方に向かっています)

 

一方で 今年は昨年に増して連合会や教区関連の御用にお使い頂くなどして

忙しく御用の日々を 過ごさせて頂いた

 

そんな中で師走に入ったつい先日

ある二人の方の思いを知ることとなった

詳細を書くのは差し控えさせて頂くが

そのことで「思い分け」について考えさせられた

 

思い分けというのは

自分の中では たとえ自分の願い通りのおかげを頂けなかったとしても、どこまでも信心で受けていくことであると思う。

ただそれを信心が分からない人には「妥協」したと見えるのかもしれない

「この方の道は話をきいて助かる道」とみ教えくださっているが

話を取り違えるということはよくある

 

教祖さまは神様からの(ある意味理不尽な)お試しに対して「思い分け」しておられるご事跡がある。

その部分を拝読させて頂くと

「神様は決して氏子の身の上に無駄事はなさらない」

という教祖さまご自身の神様への絶対的な信頼が伺える。

それは疑いのない、真っ直ぐな心

「思い分け」はおかげの世界

一方「妥協」というのは「あきらめ」の境地

 

似て非なるものだ

ここは信心を深めていかなければ

分からないところだろうと思う

 

奇しくも先日 教区の青壮年教師セミナーで 「大切にしていくもの」というテーマでパネラーとして発題させて頂いたが

そのとき「真心(真、真一心)」ということについて思うところをお話させて頂いた。

神様に向かう心のありようが

この「真心」かどうかが鍵のように思う。

 

来年からは改めて自分自身「真心しんじん」を持って 改まりのおかげを 頂きたいと願いを新たにしている。

 

最後に 来年はもう少し更新したいと思う(涙)