おやごころ かみごころ

金光教の教会で御用させて頂く日々の中で感じた神様の話

教会の100年祭のおかげを頂いて



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今年のお正月にブログを更新して以来
ずっと更新が滞ってしまった
その間ご訪問くださった方申し訳ありませんでした
今年は私の御用させて頂いている教会の
開教100年という大きな節目の年で
5月21日の記念祭に向けて準備に全神経を集中させていました


記念祭は先月無事に麗しくご奉仕のおかげを頂いた

本格的に準備を始めたのは今年になってからで様々な取り組みのおかげを頂いた

おかげ頂いた事柄を並べると

・信奉者トイレの移設
・旧トイレの解体と玄関周りの整備
(スロープの設置、屋外掲示板の新調、   看板の移設、教旗掲揚台の移設)

御広前、楽座、控えの間の畳替え

・楽座、控えの間の建具の新調
・記念祭までの日めくりカウントダウン
・記念祭での吉備舞奉納(三人舞)
そして
・記念誌の作成


今年の初めに決まっていたのは
信奉者トイレの移設と記念誌作成
カウントダウン日めくりと三人舞くらい
 これだけ出来させて頂けたら有り難いと思っていたが
結果的に願い以上の様々なおかげを頂いたんだと改めてびっくりしていると同時にもったいない気持ちでいっぱいだ。

これはすべてわたしの頭の中で計算して出来たことでなく
みな神様がお計らいくださって出来させて頂いたことを実感しているし、そのことがまた有り難い

事を進めていくなかで
当初は自分が一人で出来る精一杯をさせて頂けばそれでよいとわたしは考えていた
人は当てにしないと決めていたからだ
しかし、いざ準備を進めていくなかで
自分一人ではさっぱり見当もつかず、人の手を借りなくては出来ないことばかりだった
そういう中で思うようにいかない人の心に触れ
しかしそれを不足に思わず
すべておかげにならせて頂くよう
神様にお縋りしながら進めさせて頂いた。

 

わたしは以前は記念祭などに合わせて
記念事業を進めることに非常に懐疑的だった。
それはわたしがそれまでに見聞きしたことの中に原因があった
そこは今掘り下げては語らないが
過去の記念祭の取り組み方に問題があったことは否めない

そういうことから
記念祭をお迎えするのに特別なことをする必要はなく
清い御礼の心さえあればそれでよいと思っていた。

しかし、今にして思えばそれは体よく逃げていたに過ぎなかったと思う

清い御礼の心を持っていても
その心を形にしなければ
本当の御礼にならない

有り難うと心で思っていても
言葉にださなければ相手に伝わらないように
神様は確かにすべてご存知なのだが
だからいいや~では
本当の御礼にはならない

 

そのように思わされたのは昨年
親教会が開教100年をお迎えになり
記念祭に向けて親先生をはじめ、信奉者の皆さんが心を合わせて取り組みを進められる姿に触れてからだ


そういう心境にある時
信奉者トイレの改築の必要性が出て
100年に合わせておかげを頂かせてもらおうという機運が信者さんの中で高まった。それで取り組ませて頂きたいとの願いを持たせて頂いた

教会長の私がせよと指示したわけではない
それが有り難い

その他にもこれまで教会の歴史を全面に綴った冊子がないことから、ささやかでも冊子を作成させて頂きたいと私自身は思っていた。当初1人で編集させてもらっていたが、寄稿を募集したところ
何人かの方が手を挙げてくださった。
自分の分からないところは母方の叔父が色々と教えてくださった

叔父とは過去20年以上確執があって
私は随分苦しい思いをした
もちろんそれは叔父も同じであろう

それが今では共に100年祭に向けての取り組みを進めさせて頂くまでにおかげを頂いた。立派な冊子が出来なくても
もう、その取り組みが出来させて頂くこと自体がおかげだと実感した。

 

(続く)