おやごころ かみごころ

金光教の教会で御用させて頂く日々の中で感じた神様の話

凛として

昨日は同じ連合会内の教会の
教会長先生の終祭にお参りさせて頂いた

4月に脳梗塞でお倒れになってから
寝たきりとなられていた
一度お見舞いに行かせて頂きたいなあ
と思っていた矢先の訃報だった

先生と初めてお会いしたのは
わたしが学院生の時
コース別研修の講師として学院へ
お越しになった時だ

「あなたのお父さんにはお世話になってるんですよ。女の身で教会長にならせてもらったばかりの頃、連合会の行事でお会いするたびよく声をかけてくださって励ましてくださった」
と声をかけてくださったのが最初だ

黒衣をお洒落に着こなされ
凛として講義されるお姿が
とても印象的だった

その後わたしが教師にお取り立て頂き
連合会の行事などでお会いするたび
明るく声をかけてくださった

当時先生は未信奉者であられたご主人と
結婚され大阪でお仕事をされるご主人とは
別居の状態で教会の御用をなさっていた

いろんな夫婦
いろんな教会
いろんな御用のあり方があるんだなあと
思わされ
先の見えない不安に押しつぶれそうな
当時のわたしの心に勇気を頂いていた。

その後そのご主人も教師にお取り立て頂かれて
妻である教会長先生を支えられた
ご夫婦にお子さんはおられなかったが
いつもお二人で会合などに出席されるお姿は
わたしの憧れの姿にも思えた

ご主人先生が
お国替えされたのが約2年前
さぞお力を落とされてあるだろうと
心配だったが


先生はお独りになられても
お会いしたときには
身だしなみはいつも完璧で
いつお会いしても
背筋はピンとされていた


わたしが最後にお会いしたのは
お倒れになる一週間ほど前


連合会の教師会に遙々出席されていた
午前中のみの出席ということで
途中で退席される先生をその場で見送るのが
なんだか忍びなく
駐車場まで送らせて頂いた
ご主人がお国替えなされてから
交通の手段がなく
なかなか連合会の行事でお顔を拝見することが
少なくなっていたので
どうやってこの会場まで来られたのか
伺うと
知り合いの人にお願いして乗せてきてもらった
そうなのだ
そうまでしてご出席くださったその先生の気概に
圧倒されていると
「死んだと思われたらいけんから(笑)」とケラケラとお笑いになられた

しかしその笑顔の奥で
どんなご修行があられたかと思うと
改めて心を引き締められる思いがした

そして

「またお会いしましょう!」と笑顔で別れた

 

 

葬儀に掲げられたご遺影には
きらきらするような笑顔で
写っておられ

まるであの日の延長のように思われた

そのご遺影は
先生自らが用意されていたそうだ

 人を助ける身にならせて頂きたい

その願いのままに一生を貫かれた

その真っ直ぐで潔い先生の生き様は
またわたしの心に勇気を与えてくださった

 

 

 

先生の御霊の道立てと
ここからの教会のお立ち行きをお祈り申し上げます

 

 

当たり前の中のおかげ

去る日曜日は
関係教会の生神金光大神大祭だった
主人やこどもたちもぜひお参りくださればとのことだったので

一緒にお引き寄せ頂いた

 

今回は教話の御用も賜っていた


家族の前というのは
なんとも話づらい(^^;)
日頃一番側にいて
わたしのよい部分と悪い部分も含め
わたしの本性をよくご存知の方々なので
口先だけのことを言うと
ハリボテなのがすくバレる(笑)

 

だからと言って当たり障りないこと言って

誤魔化すことも
御用としてはどうなのか?とも思い
思い切って日頃は
家族に対して(特に主人に対して)面と向かって言えないことも含め
教話の中で語らせて頂いた

内容は以前のブログには書いたことがあることだが家族の前で話すのは初めてのことだった

意味を理解していたかどうかは分からないけど
こどもたちは真剣に聞いてくれていた

主人も耳は傾けていてくれてたと思う(たぶん💦)

 

内容的には
信心というのは
当たり前の中のおかげに気づくこと 
ということ

うつ病を患うことを通して分からされた
家族の思いと
神様の思いを悟らせて頂けたことを
話させて頂いた

以前のブログ↓

見えない思い | 神様と二人三脚

 

 

なかなかの御修行だったが(笑)
なんとかさせてもらえた

 

家族はさぞおしりの辺りがモゾモゾしたこと
だろう

 

それにしてもやっぱりわたしは
教話苦手だ💦
後で自分で聞いてみて
大切なところを抜かしていたり
時間かけなくていいところを
熱弁してたり(笑)

聞いてくださる方もこれでは
御修行だ💦

 

しかし、お直会の時に
ある信者さんが
「わたしも似たような境遇なのでよく分からせてもらった」と仰ってくださった。

 

その言葉にわたしも救われる思いがした。

 

ちなみに長女は
「今日は最後までちゃんと聞いてた」と教えてくれた(いつもは聞いてないんだな、笑)


感想などはなかったが
いずれ大人になって
何かのきっかけで思い出してくれたら
いいなあと思う

 

主人はやっぱり
ノーリアクションだった(笑)


まあ予想通りだが

あの頃からまた何年も経ったが
相変わらず側にいてくださっているんだと

改めて

静かに感謝だ

何を目的にするのか?

こどもたちの学校では
12月の持久走大会に向けて練習が始まって
いるようだ

先日
長女が学校から帰ってきて
「お母さんが言っていたことと同じことを先生が言ってた」
と話してくれた。

何のこと?と聞いてみると

「ご褒美目当てに走るな」と言われたそうだ。

そしてしばし長女と何を目的に走るのか
ということについて意見交換した。

長女は以前は
友達は何位以内に入ったら何を買ってもらえるという話題で持ちきりになるが
うちは何もないからつまらないとよく言っていた。

そう言って悲しい顔をされる時には
わたしも悲しい。つい情に流されて
何か買ってやった方がいいのかなあと
迷う

しかし、いやいや
と思い直すのだ

そういえば
まだ上の2人が幼稚園の頃の話だが
マラソン大会が近づくと
ママ友さんの間でも
何位以内に入ったら何をあげるという話題で
もちきりになっていた

ある年のマラソン大会の時
うちの子だけ買ってやらないのは
おかしいことなのかなあと気が迷い
10位以内に入ったら
お望みのおもちゃを買ってあげると
約束してしまったのだ。

こどもたちは喜んだが
結果はなんと2人とも11位。
おしーい!(笑)
結局おもちゃは買わずに済んだが。

こどもたちはとても残念だったに違いがない
でも今思えばそれは 「おかげ」だったなあと思う。

あの時順調に10位以内に入っていて
おもちゃをもらっていたら

どうなっただろう?

ご褒美がなくては

本気で走れない子になっていたかもしれない


勉強するにしても
好きなことに打ち込むにしても

「何を目的にさせて頂くのか?」という
ところが要である

 

信心もしかりである
望み通りのおかげを目当てに
神様を拝んでいると
おかげが叶わなかった時
信心するのが馬鹿馬鹿しくなって
やめてしまうことになってしまう 

 

それはまさに本末転倒である

 

神様のくださるおかげというのは
神様の親心から発動されるものだ
神様はわたしたち氏子の親だから
決して氏子のためにならないことは
なさるはずがないのだ

 

そこの親心を分からせて頂く人にならせていただくということが
何よりも大切である。

 

 

紅葉

前の記事を更新してから 2か月が経過。

久々に更新する気持ちになった。

 

 

相変わらず忙しい日々の中で

色々なことがありながらも

今日おかげを頂いているなあと 実感している

 

先日は教会の生神金光大神大祭も無事

おかげを頂いて

御本部に御礼参拝させて頂いた

 

行きの新幹線の中で

本当にもったいないなあという気持ちに

ならせて頂いた  

もったいないというのは

新幹線の料金のことではない(笑)

「有り難き 畏れ多き もったいなき」

のもったいないである

 

色々あったから 分からされることがある

見えてくるものがある そう思う

 

今日は連合会の育成部の会議があった。

紅葉の時期で

行きすがらの山道の木々が紅葉しているのを 見て改めて綺麗だなあと思った。 

 

別に紅葉の名所でもなんでもないのだけれど 綺麗だなあと。

 

父がお国替えして18年が経った。

秋は好きだったが 父が秋の最中に亡くなってから

ますます好きになった。

生命力に満ち満ちた新緑の山々の景色も 綺麗だが、

やはりわたしは紅葉の山々が 好きなのだ

赤い色もあれば黄色もあり

鮮やかな茶色もあれば

くすんだ茶色もある

 

春はみんな緑だったのに

それぞれの木々がそれぞれに 成長して

自分の色を発しているのだ

そう思ってみると なんとも感慨深いものだ

 

わたしはますます秋が好きになった

煮え切らない日々

久々の更新
精神的に余裕なしの毎日に加え
ここ最近
とてもショックなことが続き
夏の疲れもあって
少し鬱々な日々を
実は送っている

出来れば
明るく前向きな気持ちで
ブログを更新したい

でも今回は少し
いや、かなり鬱っぽい気持ちを
吐き出します

暗い気持ちになりたくない方は
これ以上は読まないでください

 

 


ここ最近立て続けにショックなことが
起きた。
しかも、それは初めてではないことだ
以前にも
同じようなことに出くわしたことがある

またか!という思い
そして
悪い方向にしかいかないわたしの思考
わたしはこの壁を乗り越えて
おかげに出来るだろうか?という疑念との戦い

これまで取り組んできたことが
積み重ねてきたことが
見事に足元からすくわれて
しまうような衝撃を受けて
わたしは
面くらってしまった

神様は本当に厳しい
容赦がない
自分の信心が
如何に薄っぺらいものかを
目の当たりにさせられるような
出来事

本当に挫けそう
でもなんとかギリギリで
持ちこたえている状態

負けてたまるか!
誰に?
弱っちょろな自分に

こういう修行が
一生続くのだ


そんな時
教会連合会の臨時総会が開催された
次期連合会長の選出が
揉めに揉めた上に
結局時間切れとなっても
決まらないという
非常事態となった


わたしはその総会で司会の御用を
させて頂いたが
その様相は
本当に異様だった

詳しくは言えないが
それぞれが
教会の諸事情を持ち出して
みんなまるで

「逃げとけ 避けとけ 回っとけ」状態

わたしはとても憤りを感じた
誰も受けないならわたしが受けてやる
正直そう思った  
とはいえ
実際私の手元はそれどころではない
手元が覚束ない状態
しかし
絶対言い訳はしたくなかった

でも

へんな意地で受けたところで
おかげにならないということも
わかるから黙っていた

それからというもの
ずっと考えている

御用って何だろう?
信心とは?

自分は安全な場所にいて
もっともらしく語っていて。、。
しかしそれは「ホンモノの情熱」だろうか?

私自身
毎日の自分が
毎日毎日中途半端で終わっている

だから言う資格はないけども

でも
「大変だー大変だー」と喚いても
見苦しいだけではないか?

大変な中にも
黙って逃げずに
神様からの差し向けと信じて
受けていこうとするところに
神様はおかげをくださるような
気がする

それが間違いなく
このお道の教師の修行

連合会の御用も神様の御用に違いない
神様の御用は
暇があるからするのか?
生活に余裕があるからするのか?

いや、
暇があろうがなかろうが命がけでするものだ
だって
かつてのお道の教師がそうであったように
いやさらにさかのぼって
教祖様の生き様がそうだったではないか?

 

 

なんだか煮え切らない日々を送っているこの頃だ


とはいえ
今は手元をしっかりおかげ頂くしかないのだ

平和


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夏休みが
あれよあれよと約半分過ぎた今日
金光教山口平和集会」に参加させて
頂いた

今回の集会では
なんと
「平和の歌をつくろう」という
ユニークなワークショップ?が開催された

参加者がいくつかの班に分かれて
「平和」からイメージされる
言葉(歌詞)を出し合うというもの

うーーーーん、平和、平和、平和。。。

普段から
平和を祈っているつもりだったが
パッと具体的なイメージが
思いつかないのはどういうことだろう?(笑)

とはいえ、
なんとかいくつか思いたった
言葉を出してみた 

わたしの頭の中でひらめいた言葉は

「明るい」「こどもたちの夢」「ゆるす」
「違いを認める」とかだった

ふと
わたしの横で小学生の男の子が一言
「いのち」
と書いていて
オバサンはただただ脱帽!


他にも
「祈り」「広島」「人を責めない」
とか
「親切」「思いやり」「当たり前ではない」
などの言葉が
わたしが参加していた班ではあがっていた

最後に
ひとりひとりが
一羽の折り鶴の羽に
平和の歌の歌詞にしたい言葉を書き
神様にお供えさせて頂いたが
いずれ実際に「平和の歌」が作られるそうだ

 

戦後71年を迎え
当事者の死亡、高齢化により
実際の戦火の記憶が薄れつつある中
このような平和集会も
形骸化しがちであることは否めない

しかしわたしは
出来るだけこれからも参加させて
頂きたいと思う 

 

その理由はとても単純だ
きっと父が生きていたら
参加していただろうと思うからだ

 

わたしの父は
シベリア抑留からの生還者だ。

父がもし、先の大戦で戦火に倒れていたら
シベリアで白樺の肥えとなっていたら
今わたしはここに存在しない

 

父が無事に生還出来たということの裏には
沢山のいのちの犠牲がある 

 

父はあまりその事を語ろうとしなかったが
父の日々黙々と平和を祈る背中が 

今も
わたしの脳裏に焼きついている

 

雑草

今日は予定した用事が変更となったので
少し早いけど
朝からお盆前のお墓掃除に行ってきた

お墓の周りには草が沢山あって
ひたすら草取りを
2時間ほど頑張った

沢山に育った雑草を刈る
けれどもまた雑草は生えてくる
場所を選ぶことなく

しぶとく生える雑草を刈りながら
思わされた

自分のおかれた環境に
ぶつぶつ文句を言うのは
人間くらいだなあと(笑)

物事が思い通りにいけば幸せで、
そうでなければ不幸せ
と決めてしまうのも人間ぐらいだなと(笑)

目の前に広がる雑草は
都合不都合に関係なく
立派に伸びている


雑草みたいに
どんなことでも
自分の栄養にして
しぶとく
生きのびたいものだ