おやごころ かみごころ

金光教の教会で御用させて頂く日々の中で感じた神様の話

お節介おばさん

 今観ているドラマのひとつに

監獄のお姫さま」というのがある

これは宮藤官九郎氏の脚本のドラマ ということで

面白いに違いないという確信を持って 最初から

見始めたが 次の火曜日でいよいよ最終回となる

 

このドラマを端的に表現すると

「おばさん達の壮大なお節介物語」である

 

お節介というと普通あまりよいイメージではない

そのせいか 最近はお節介な人が絶滅寸前な気がする

「ややこしいことに首を突っ込みたくない」

「人に迷惑だと思われたくない」

そんな気持ちがお節介を引っ込ませてしまう

 

いわゆる「事なかれ主義」が台頭する今の世の中

 

ドラマの中の中ではおばさんたちは

みな自分の人生を犠牲にしてまでも

「姫」のために復讐を計画するが、

このおばさんたちはどこか 「姫」のためではなく

自分のために やっている節がある

 

実はわたしも今「絶賛お節介中」である

日常生活を送りながらも かれこれ数ヶ月間

そのことが頭から離れない状態だ

本人に喜ばれているかといえば

疎ましがられてる部分は往々にしてある

まさに「お節介おばさん」と化している

 

お節介を焼いていて 自分は何やっているんだろうと  ふと冷静になることがある

モヤモヤする事だってある

 

ただ「事勿れ主義」で 常に自分は安全な場所にいて

渦中の人のことを あれこれと言う人にはなりたくない

 

改めてそう思う

 

さて数ヶ月間焼いてきたお節介も

一段落したと思ったら

ついついまた手を出さなくても済みそうなことに

手を出し始めてしまった

 

別にわたしがしなくても良いようなことである

ただでさえ忙しいのに 自分で自分の首を締めている

ようなものだ

蚊帳の外から見ている人には

「お馬鹿」と思われるかもしれない

 

それでもわたしの中の

「お節介おばさん」が動き出す

 

この「お節介おばさん」は

厄介だけどしばらく 付き合っていくしかなさそうだ

助かってくれよという祈り

「ありがとう 言えた自分に ありがとう」

これは二十年ほど前にお世話になった

金光図書館を辞して教会へ帰るとき
当時の館長先生が
額に入れてくださった餞の言葉だ

当時のわたしは非常に心が荒み
逃げるように退職したこともあり
そのような餞の言葉は
当時の自分の心のなかでは宙に浮くばかりだった

それでも
心の奥底では
なれるものならこういう心になってみたいと
思っていたのかもしれない


あれから二十年が経って
今改めてこの言葉を詠んでみると
その言葉の意味と
その言葉にかけてくださっていた
「助かってくれよ」
という切なる祈りが鮮明に心に迫ってくる

今の自分には心から
「助かってほしい」と願う人たちがいる
でも
力になりたいと思っても
手を出せない状態が続いている
自分の無力さを嫌というほど感じている

ただただ神様に祈るしかない
そう思うなかで気づかされたこと


それが
あの餞の言葉をくださった館長の
「助かってくれよ」という祈りだ

 

「わが心でわが身を救い助けよ」
「わが心でわが身を生かすこともあり殺すこともある」
というみ教えがあるように
神様が助かってほしいと願いをかけてくださっていても
その神心をわたしたち人間が認識出来なければ

神様だって助けようがないという部分がある

実際わたしもつい最近まで
その神様の心が
そして
祈りをかけてくださっていた人の心が
認識できない人間だった

難儀にうもれながら
ただただ駄目な自分を責め
「生きていてごめんなさい」
と謝ってばかりだった

 

そんなわたしがいまこうしていられるのは

どんな自分であっても
祈られ願われている
ということに気がつけたということ

そしてそのことに「ありがとう」という
一言が言える心になれ

そしてよく気がつけたねと
自分の心にも「ありがとう」が言える心になれたというこ


わたしが今出来させて頂けること

それは

わたしがこれまでして頂いたように
わたしも今は

助かってくれよと信じて祈って待つのみなんだな

きっと

迷い信心ではいかぬ

今日は1ヶ月ぶりの御本部参拝の
おかげを頂いた


7月はいつお参りさせて頂こうかと
予定を立てたとき
手元の御用の都合やこどもたちの夏休み前でもあって
ゆっくり
お参りが出来そうな日は
今月は10日か11日しかないことに気がついた

丁度
PMSの時期と重なっていていた
予想は的中だった
手元の御用が思うように進まず
結局10日もお参りし損ねて
今日となった

 

ところが
朝起きたとき
すこぶる体調が芳しくない

早速
「あーやっぱり昨日お参りしておけば」
と後悔した。

まだ昨日の方が調子が良かったといえば
良かったのである


それでも今日は
お参りさせて頂かない
と今月はもう難しいと
思い直し
なんとかお引き寄せ頂けますようにと
御祈念させて頂いた

 

その後
こどもたちの学校への送り出しに
右往左往してるときに
ある信者さんからの電話がかかった

 

詳しくは差し控えるが
その信者さんは
転職し
数日前から新しい職場で早朝の
仕事に就いたばかりだった

 

ところが今朝
その職場の社長の奥さんに
仕事のことで怒られ
一時間も早く帰らされたらしく
「前の職場を辞めなければ良かった」
との後悔の念がにじむお届けの内容だった

 

詳しく伺いたい気持ちは山々だったが
ただでさえ慌ただしい朝の時間
さらに御本部参拝させて頂く予定なので
話に耳を傾ける時間がない

ということで
信者さんには事情を話して
御本部から帰ってから
話を伺うことを了承してもらい
電話をひとまず切った

 

出かける準備をしながらも
その信者さんのことが気になり
「あーやっぱり昨日お参りしとけば良かった!」
という気持ちばかりが膨らんだ

そうこうしてるうちに
乗る予定だった新幹線に乗り遅れつつ(..;)
何とか御本部に向けて出発させて
頂くことが出来た

電車に乗っても
その信者さんのお届けのことが
気になって仕方なかった

その信者さんは転職することについて
かなり迷っておられたが
ちゃんとお取次頂かれて決められた
転職だった

だからおかげになるはずなのだ

しかし
本人は「後悔」してるとのことだった
そのことが非常にわたしの心を
モヤモヤとさせた


そして
御本部から教会に帰るまでに
なんとか
このモヤモヤが
なくなるおかげを頂きたいと思った


そうこうしているうちに
御本部に到着

本部広前にお参りさせて頂き
今月の御礼のお届けをさせて頂くことが
出来た

 

その後は
奥城参拝させて頂き
先月お借りした本を返すついでに
調べ物があったので
金光図書館へ寄ろうと考えていた
 
が、金光図書館は
なんと休館日だった

昨日御本部は月例祭日で
昨日だったら図書館は開館していた

わたしの心の中は
「やっぱり、昨日お参りするべきだった」
との思いが益々膨らむばかり


今日は当てがハズれてばかりの本部参拝だなあと思ったが

御本部参拝に

当たり外れがあるわけがないとも思い

当てがハズれるのもおかげと

いうことかと思った

 

そうしたら

時間が空いた分
ゆっくり奥城をお参り出来るし
予定より早めに帰路につかせてもらえる
ではないかと気がつき
気持ちを切り替えて
早速教祖奥城

 

しばらくの間
御祈念させて頂いていると
やはりどうしても
あの信者さんの
朝の電話が気にかかるばかり


あの信者さんへの
御取次、御理解が
「間違っていたのかもしれない」
と心配が先に立った
転職しないほうが
「正解」だったのかも?
とも思った

そんなことを考えていて
やっぱりモヤモヤしていた

 

すると心の中に

「迷い信心ではいかぬ。一心とさだめい」
というみ教えが浮かんだ。

 

さらにしばらくして
ふと気がついた

昨日お参りすれば良かったと後悔する
自分と

やっぱり転職しないほうが良かったと
後悔する信者さんの心が

同じであることに気がついた


そのことに気がつけて
心の中のモヤモヤが消え去り
目の前が
ぱあっと
晴れるのうなおかげを頂いた

 

そして

さあ
御用にお使い頂くぞという
気持ちにならせてもらい
帰路についた

 

教会に到着して
間もなく
計ったかのように
その信者さんが
お参りされた

(ちなみに別の信者さんから
お届けの電話もあった)

 

神様が早く帰らせて下さったと感じた

 

そして改めて
今朝の電話のことについて
お取次の御用にお使い頂いた

 

その信者さんは
帰るときには
「やっぱり今日教会にお参りして良かった!」

といって
お帰りになった

 

その信者さんの心と
その時のわたしの心も同じだった

 

「やっぱり今日御本部にお参りして良かった!」 と

逃げても逃げても

100年祭からあっという間に1ヶ月が
過ぎてしまった


過ぎてみれば
もう遠い昔のような
夢だったような
不思議な感覚

 

今はまたいつも通りの静かな御広前に
戻っているので

ついつい気が抜けそうに
なってしまっているこの頃だ

 

しかし100年の大切な年は
まだあと半分残っている!

 

さて今月は
連合会主催の教会女性活動研修会が
あり、信心発表をさせて頂いた

 

また先日は
教区主催の教会長教師研修会に
参加のおかげを頂いた

 

これまでのわたしの信心を
このよき節の年に
振り返るよい機会に恵まれたなあと
思う


振り返るということは
つまり過去についてのことに
なるが
 
難儀の最中
あれだけ苦しんでいたことが
時が経ち
歳も取り
つまりお育てを頂いた自分の心で
改めて考えて


「あれはおかげだったんだなあ。
 おかげの中にわたしはいたんだなあ」


と思えることほど
幸せなことはない

 

それを実感出来るということほど
これから生きていくうえで
強いものはないなあと思う

 

そして正に今その有り難さを
かみしめている


難儀なことが起こっても
これはどのようなおかげに
なっていくのかと思うと
ワクワクする
といえば
ちょっと強がりも入るが(笑)
今はそんな心境にならされている


ついつい難儀なことや
自分にとって不都合なことは
避けて通りたいと思うには思う

 

しかし

逃げていては

本当のおかげにはならない

 

逃げ回っていては

難儀は難儀のままなのだ

と確信する 

 

それにしても
過去
わたしはよく逃げ回った
逃げて逃げて逃げた先で
また難儀して逃げて(笑)
それで逃げたらダメと分かったのに
また逃げて(笑)

でもどんなに逃げようとも
神様の
氏子を助けたいという心からは
逃げられるものではないのだ

 

そんなことをふと思わされたので
記してみました

お一人様参拝

今日は
御本部で仕えられる
教団独立記念祭にお引き寄せ頂いた

今日は「お一人様参拝」だった

 

家族と一緒に参拝したいという願いは
あったが
中一の長女が午前中だけ部活に
行かなければならないということで
主人やこどもたちにはお留守番を
お願いした。

 

御本部広前にお参りし
お届けを済ませて
受付案内へ行って配布物などを受け取った


そのときに
「今日はお一人様ですか?」

御用奉仕の学院生が
とびっきりの笑顔で聞いてこられた。

 

もちろん参拝届に
参拝人数は一人と書いて届を出したのは
間違いなかったが
なんだか恥ずかしく感じつつ
「はい、ひとりです(笑)」
と答えた

 

その学院生の笑顔に
救われた思いもしつつ
その場を立ち去って
その後
木綿崎山の奥城を参拝してるときに
ふと思わされた

 

自分一人がまず参拝出来させて頂けた
ことが本当に有り難いことじゃないかと


0じゃない
空欄ではない
1が有り難い


おかげを頂いているから1なのだ

 

布団の中で動けずに泣いてばかりいた
数年前に比べて
あれも、これも、
おかげ頂けているんだという
実感がこみ上げてきた

あの頃のことを思えば
時間も経済の心配なく
健康の上に
家族の思いのうえにも
神様のお繰り合わせを頂き
わたし一人の命を運ばせて頂けた

そして御礼のお参りが出来たと。


こういうことを頭の中で
ぐるぐる考えながら
木綿崎山を登るのも
「お一人様参拝」ならではの醍醐味だ

 

 

今日は
前々から
直接お顔を拝して御礼の気持ちを伝えたいと思っていた先生に
本当に僅かな時間というか
一瞬だったが 
お会いしてご挨拶出来た

その先生にブログを通じてメールのやりとりをさせて頂くようになった頃は
わたしはうつ病の最中だった
先生もその頃
広場恐怖症等を抱える中で
御用されていた

 

その先生が
この度四十年の褒賞を受けられた
代表して御礼の言葉を述べられる
そのお姿を見せて頂けたことが

今日一番のおかげだ

 

今は帰りの新幹線でブログを書いている


今日は図書館で
阿倍野教会の伊藤コウ師教話集を借りた

その中に
「神様に、どうぞ私にしっかり苦労させて下さい、とお願いさせて頂きましょう。それが、先々おかげを頂く元になります。」と書いてあり

尚更有り難い参拝となった

 

これも「お一人様参拝」だから
出来た

 

教会の100年祭のおかげを頂いて(2)



f:id:fonwaka3:20170605085158j:image

 

 

記念誌の編纂については当初
わたしの頭の中では
今お参りされている方々のおかげ頂かれたことについての思いとか
私自身これまでブログに吐き出していたところをまとめていくことを中心にしていこうと考えていた

歴代教会長については簡単な説明にとどめるつもりであったが、編集させて頂く中で歴代教会長先生の信心に苦労されつつも御用を全うされる姿に触れて、色々と考えさせられるところがあり
結果的には歴代教会長先生の御跡を詳細になぞっていくことが中心となった

特に初代教会長先生のことについては
資料がほとんど残っていないこともあり
私自身
これまでお名前をお唱えしても
あまり実感として尊ぶ気持ちがどうしても薄かった

しかし改めてこの度、数少ない初代教会長先生の資料と丁寧に対峙してみて
初代がわずか布教3年目にお国替えされたこと
その御歳がわたしと同じ
43歳であったこと
お子様を亡くされていることなどがわかり
何となくではあるものの
初代の人と成りが
偲ばれるようにならせて頂いた

うちの教会は
わたしが7代目となるが
それぞれの歴代教会長が遺された
信心の軌跡を掴ませて頂き
やっと「後継」させて頂く
その信心を「受け継ぐ」ということを
遅まきながら
分からせて頂けたような気がする

この教会に住むのはかれこれ
四十数年だが
やっとこの教会の人間に
ならせて頂いたような気がするのだ

またここに自分自身
成長のおかげを頂いたと実感させて頂いている

 

 

教会の100年祭のおかげを頂いて



f:id:fonwaka3:20170604120716j:image

今年のお正月にブログを更新して以来
ずっと更新が滞ってしまった
その間ご訪問くださった方申し訳ありませんでした
今年は私の御用させて頂いている教会の
開教100年という大きな節目の年で
5月21日の記念祭に向けて準備に全神経を集中させていました


記念祭は先月無事に麗しくご奉仕のおかげを頂いた

本格的に準備を始めたのは今年になってからで様々な取り組みのおかげを頂いた

おかげ頂いた事柄を並べると

・信奉者トイレの移設
・旧トイレの解体と玄関周りの整備
(スロープの設置、屋外掲示板の新調、   看板の移設、教旗掲揚台の移設)

御広前、楽座、控えの間の畳替え

・楽座、控えの間の建具の新調
・記念祭までの日めくりカウントダウン
・記念祭での吉備舞奉納(三人舞)
そして
・記念誌の作成


今年の初めに決まっていたのは
信奉者トイレの移設と記念誌作成
カウントダウン日めくりと三人舞くらい
 これだけ出来させて頂けたら有り難いと思っていたが
結果的に願い以上の様々なおかげを頂いたんだと改めてびっくりしていると同時にもったいない気持ちでいっぱいだ。

これはすべてわたしの頭の中で計算して出来たことでなく
みな神様がお計らいくださって出来させて頂いたことを実感しているし、そのことがまた有り難い

事を進めていくなかで
当初は自分が一人で出来る精一杯をさせて頂けばそれでよいとわたしは考えていた
人は当てにしないと決めていたからだ
しかし、いざ準備を進めていくなかで
自分一人ではさっぱり見当もつかず、人の手を借りなくては出来ないことばかりだった
そういう中で思うようにいかない人の心に触れ
しかしそれを不足に思わず
すべておかげにならせて頂くよう
神様にお縋りしながら進めさせて頂いた。

 

わたしは以前は記念祭などに合わせて
記念事業を進めることに非常に懐疑的だった。
それはわたしがそれまでに見聞きしたことの中に原因があった
そこは今掘り下げては語らないが
過去の記念祭の取り組み方に問題があったことは否めない

そういうことから
記念祭をお迎えするのに特別なことをする必要はなく
清い御礼の心さえあればそれでよいと思っていた。

しかし、今にして思えばそれは体よく逃げていたに過ぎなかったと思う

清い御礼の心を持っていても
その心を形にしなければ
本当の御礼にならない

有り難うと心で思っていても
言葉にださなければ相手に伝わらないように
神様は確かにすべてご存知なのだが
だからいいや~では
本当の御礼にはならない

 

そのように思わされたのは昨年
親教会が開教100年をお迎えになり
記念祭に向けて親先生をはじめ、信奉者の皆さんが心を合わせて取り組みを進められる姿に触れてからだ


そういう心境にある時
信奉者トイレの改築の必要性が出て
100年に合わせておかげを頂かせてもらおうという機運が信者さんの中で高まった。それで取り組ませて頂きたいとの願いを持たせて頂いた

教会長の私がせよと指示したわけではない
それが有り難い

その他にもこれまで教会の歴史を全面に綴った冊子がないことから、ささやかでも冊子を作成させて頂きたいと私自身は思っていた。当初1人で編集させてもらっていたが、寄稿を募集したところ
何人かの方が手を挙げてくださった。
自分の分からないところは母方の叔父が色々と教えてくださった

叔父とは過去20年以上確執があって
私は随分苦しい思いをした
もちろんそれは叔父も同じであろう

それが今では共に100年祭に向けての取り組みを進めさせて頂くまでにおかげを頂いた。立派な冊子が出来なくても
もう、その取り組みが出来させて頂くこと自体がおかげだと実感した。

 

(続く)