おやごころ かみごころ

金光教の教会で御用させて頂く日々の中で感じた神様の話

親の難儀


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昨日は月例祭だった
月例祭後にお墓参りをさせて頂いた。

その時ある人にバッタリお会いした。

その方は親の月命日には必ずお参りされているそうだ。
墓守の兄夫婦とは今は絶縁しているとのこと。
お話しながらふと思わされた。

兄弟で喧嘩する姿は
親にとったら難儀なものだろうなと。
いくら毎月欠かさずお参りしてくれても
親は心配に違いないと
そのかたのご両親が眠る墓石を
眺めながらそう感じた



わたしは一人っ子で兄弟はいないので
兄弟がいる人が羨ましいと思う。

でも世の中には
兄弟なんて欲しくなかったと
いう人もある。

親の死をきっかけに
兄弟が仲違いをするところもある。

兄弟関係だけではない
夫婦関係にしても
嫁姑関係にしても。。。。


わたしは立場上
その
ご兄弟双方の言い分を
聞かせて頂いたことがある。

当事者の思いとしては
それぞれの言い分は
至極もっともだと感じた。

「片方聞いて沙汰するな」
とはよく言ったものだが

結局聞かせて頂いて
どちらが正しいとはっきり結論がつかない(^^;

しかし
言い分は違えど
両方に共通するものがあるということに
気がついた

それは


自分の思いばかりを大切にして
相手の立場や心を思いやれない。

自分の方が正しいと思い込んで
相手に変わることばかりを求め
自分は少しも変わろうとはしない。

言葉尻だけを問題にし
その言葉が発せられた所以に心が
至らない。

相手を批判するときは
「~だろうから」とか
「たぶん~だ」という想像(妄想?)や決めつけが大半
(そのことは絶対間違いないと信じて疑わない)

そして「意固地」

わたしもかつてそういう
心だったことがあった。
いや今でも油断すると
すぐ心が頑なになってしまう。

「この天地に住む人間はみな神の氏子」

親神様からご覧になれば
人間のいさかいごとは
すべて親神様の難儀に直結する



常日頃
み教えを頂き
心を柔らかくする稽古を
させて頂きたいものだと改めて
思いながらの墓参となった。

場面緘黙(かんもく)を知ってください3


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今日は午後から
長女と二人でショッピングに出かけた

これまでは
家族みんなで行くことが基本で
娘と二人だけでということが
そう言えばほとんどなかった(^^;

女子?だけのお買物💓
親子でちょっとルンルン(笑)

ここ一年で背が急に伸びて
去年の夏物がことごとく着れなくなっていたので
長女の服や靴などを購入した

ひとしきり買い物を済ませて
喉が乾いたので
ファーストフードの店内で一息🍹


小学校高学年だから
そろそろ家族とというより
友だち同士でショッピングに
出かけたりするものだろうが
長女はほとんどそういう経験がない

遊びたいと思っていても
長女から友だちを誘うことは
出来ないし。。。



二人でお茶しながら
「楽しい🎵」と喜んでくれる長女
実は内心わたしの方がウキウキ❤だった

長女が注文したクリームソーダを
眺めながら昔のことを思い出していた。

わたしが子どものころ
母とこんな風にショッピングに
出掛けて楽しいと思った記憶が
あまりない

それはわたしと母は
祖母と孫くらい歳が離れていたから

いろんな意味で「楽しい」感じではなかったのだ

だから今こうして母になり娘と二人で
ファーストフード店で女子💓の話を
したり聞いたりしている
自分の状態がとても新鮮で
かなり舞い上がってしまった(笑)

楽しい時間はあっという間に過ぎ
そろそろお帰りの時間

いつもは「内緒」ごとは無しだが
今日のこのクリームソーダの件は
我が家の男どもには内緒だ(笑)

女同士の約束ごと



さて昨日に引き続き
場面緘黙症の啓発のための動画をご紹介

場面緘黙の代表的な本に
なっちゃんの声」というのがある

なっちゃんの声ー学校で話せない子どもたちの理解のために

なっちゃんの声ー学校で話せない子どもたちの理解のために


そのなっちゃんの心を代弁するように
語られている

緘黙のこどもたちの
声なき心の声が聞こえてくるよう

良かったらご覧ください↓


場面緘黙(かんもく)を知ってください3 - YouTube

場面緘黙(かんもく)を知ってください2

前の記事に引き続き
「場面緘黙」の啓発のための動画を
ご紹介

今回の動画は緘黙の子の母であり
また元教員という立場の方の言葉が
語られている

こどもたちにとって
学校または幼稚園や保育園というところは
一日の大半を過ごす場所であり
殊に担任の先生の対応は
こどもたちの人生にけっこう影響すると
思う

その担任の先生への周知と理解が
未だに広まっていない

わたしもこの4年間
その時々の担任の先生に
対応をお願いしてきたが、
皆さんが初めて聞いたというのが大半。
正しい対応をご存知の先生はいなかった。
また、対応にも温度差はあった。
もちろんお忙しい中に
ご無理を強いるつもりはないけれども


さらにわが子の異変に気がつき
診断をしてもらおうと思っても
場面緘黙症専門医が少ない
専門医とまでもいかなくても
場面緘黙症を知っている
小児科医や精神科医が少ない

その点はわたしたち親子は
とても恵まれていた

場面緘黙の専門医の第一人者と言われる
先生が主人の実家の程近くに開院されていたのだ。

これは本当に神様のおかげ
後押しがあってのことと感じている



場面緘黙症という名称を出すと
「最近は何でも病気として扱う」
ととられがちだ

わたしも特別に問題もなく
穏やかに日々が過ぎていくと
ついつい実は自分は
過保護な親なのでは?と
思ってしまうことがある

つまり放っておいても
そのうち治るんじゃないか?
大丈夫なんじゃないか?と

もちろん大丈夫な場合もあって
何かのきっかけで
自分自身の力で
ひとりでに克服する子もいるようだ

しかしそうでない場合もある
そしてそうでない場合のときに
本人は社会に適応出来ず思い悩み
本人の心の闇はどんどん深まっていく

本人が「生きづらさ」を感じる以上は
支援の手が必要だとやはり感じる

だから過保護な親と思われても
本人が本当に克服することが出来るまで
寄り添い続けたい


よかったらご覧ください↓


場面緘黙(かんもく)を知ってください2 - YouTube

場面緘黙(かんもく)を知ってください

5月は「場面緘黙」の啓発月間だった

もう6月だけど
場面緘黙の周知と理解の為に作成された動画を紹介

よかったらご覧ください


場面緘黙(かんもく)を知ってください - YouTube

わたしはこの動画を初めて観た当初
「治療法はない」というところで
けっこうショックを受けたものだ

親のわたしが
長女の難儀から目を背けようとしていた

でも

近道はない

長い目で、気長に、根気よく、焦らず
親は待たなければならないということを
この動画に教えてもらった。

親として出きることは少ないけれど
ただ何もしないで待つのではなく
より沿いながら
見守りながら
長女の「自信」を育むこと



カウンセリングを受けているけど
これは
治療ではなく
「自分を知る」作業のようなものだ

己を知る
そして
ちいさい「出来る」を積み重ね
それを「自信」につなげていく

そして常に長女を信じて「祈る」

心配する心で

「日々がさら」
つまり 一日一日が新しい
というみ教えがあるけれど

わたしのような凡人は
毎日毎日
自分の信心のモチベーションの
浮き沈みがある
毎日同じ心でというのが理想だが
神様に向かえる日と
そうでもない日と
まったく背中を向けてる日と
なんとなく
ななめ45°の日とある
昨日が満点だから
今日も満点とはいかない
今日になると0点だなと思う時もある

一日でまるで違う

なんとあてにならない自分の心だろう(笑)


我が子をみてると
今日はとても言うことを聞ける
「よいこ」な日もあれば
まあまあな「ふつうなこ」の日もあり
まったく言うことを聞かない
「わるお」な日ももちろんある

親としては
どの日もまったく安心というものがない
わるおはもちろん心配だし
普通は普通で
もっとよりよくなって欲しいと
願わずにはおれないし、
よいこはよいこで
無理をしてるんじゃないかと心配になる

神様はわたしたちの親様だから
きっと同じような心持ちで
おられるに違いない
そしてきっとどんなときも
祈ってくたさっている

だからわたしもこどもたちに
祈りをかけてやらねばと思う

今日も心配する心で信心させてもらおう

義父の入院と運動会


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今日、無事に義父が退院した。

昨日はこどもたちの運動会の振り替え休日と主人の休日が重なり
義父の入院している病院へ御見舞いに
行かせてもらったが、いつもの義父で
お元気そうで何よりだった。

入院したのは去る27日
その日は長女のカウンセリングの日。
長女が通う小児科は
主人の実家にほど近くで
カウンセリングの帰りに
いつものように立ち寄った。

すると、なぜか家には鍵が。。。
わたしたちが来ることは
主人の両親は分かっていたはずなのに。。。

何かあったのかな。。。

その予感は的中!

その時、義父が山で怪我をして
救急車で運ばれていたというのだ。

怪我の詳細はここで書くのは差し控えるが
(色々説明が面倒なので(^^;)

命に関わるまではないにしても
化膿や感染を起こすと厄介な場所なので
念のため入院ということになった。

義母はわたしにすぐ連絡しようと
思ったが、気が動転してウッカリ携帯電話を忘れていて
番号も分からず連絡が出来なかったそうなのだ。

これは後から聞いた話だが
義母はわたしと連絡がとれないとなったとに
思わず
「金光様!」
と祈り願ったそうだ。

とても有り難かった。


神様はすでにちゃんとおかげを
下さっていた。

義父は山で怪我をしたが
それから自力で家まで帰りついた。
この時点で
出血は大したことはなかったようだ。

実は、義父は昨年心筋梗塞の発作で
命の危ういところを助かるおかげを
頂いたのだが、その発作以降
血を流れやすくするための薬を服用していた。だから怪我をすると止血しづらいはずだったが、少量の出血で済んでいたのだ。

それは少量の出血で留まる程度の怪我で
済んでいた。
もっと深い傷を負って
出血が多量だったら
自力で山を降りれなかったと思うのだ。

これを「偶々で運が良かった」とは
わたしは思わない
神様が守ってくださったんだと感じる

そしてちゃんと神様は
願う氏子におかげを授けてくださった


主人の両親はいつも
こどもたちの運動会に見に来てくださっていて、今回も楽しみにしていた。

ところが入院ということで来られなくなった。
こどもたちはガッカリ
特におばあちゃんっ子の長女は
かなり残念な様子だった。

運動会当日の予報はくもりのち雨で
順延の可能性が高かったので
数日後に延びて欲しいと長女は言っていたが
運動会は順延することなく雨の中開催された。

次男にとっては初めての
長女にとっては最後の
後にも先にも2度とない
こどもたち3人の揃った運動会だったから
両親には見に来てもらいたかった。

残念と思えばそれまでのこと

運動会では夫婦で連携して?
大人数の中から必死で我が子を探し
ビデオに収めた(笑)

特に長女が見てほしいと力説していた組体操は絶対にビデオに収めたいとの執念でわたしが録った(のでかなりブレブレだったが、(笑))

また近いうちに主人の両親に観て頂こうと思う。

主人の両親が生きていてくださってるから
こういう親孝行が出来させて頂ける。

それが何よりのおかけだ

まだまだ主人の両親にはご恩をお返しするどころか、お世話になりっぱなしだが

長女の緘黙(かんもく)


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昨日は長女のカウンセリングの日だった。

長女は3年前に
「場面緘黙(ばめんかんもく)症」と診断され
それから2-3ヶ月に1度
専門医のいる病院を受診し
臨床心理士のカウンセリングを受けている

場面緘黙症というのは簡単に言うと
家庭では普通に話せるのに
学校などの社会的な場面で
話せなくなるという症状のこと

しかし
症状の現れ方は個人差があり

長女の場合は
学校で発表や音読などでは小さいながらも
声が出るけれど
先生や友達とのフリートークは
出来づらいという感じ
あと表情がどうしても固くなるようだ

症状の強い子は
声だけでなく行動が抑制される
「緘動」という症状になる子もいるそう

よく勘違いされるのだが
引っ込み思案とか
人見知りとかとは少し違う
確かに下地にはそういう部分も
なきにしもあらずだが
普通は1ヶ月もすれば慣れてくるもの

しかし
緘黙の子は年単位で症状が続く

本人の意思で「話さない」のではなく
「話せない」のだ



最近の長女はどうやら
症状は相変わらずのまま

家では普通に話すので
学校ではどうなっているか
親のわたしが実際の症状の変化が把握しづらい


この春長女は6年生に進級
下級生のお世話や委員会のことを
否応なしにする立場となることから
当初わたしは長女に出来るか
心配で堪らなかった

しかし
わたしの心配を裏切り
長女は予想以上に頑張っているようだ

長女は今登校班の班長で
班の一年生のお世話をしている

それから委員会は保健委員に所属している
ときどき給食の放送時に
保健委員会からのお知らせの
原稿を読んだりしているらしい
  
昨日学校へ長女を迎えに行ったとき
短かったが放送で流れる長女の声を聞いた


もちろん長女が一人で
頑張っているわけではない

担任の先生やお友だちの理解と協力のもとで
彼女なりの精一杯が叶っているのだ

たぶんプレッシャーやストレスも
大きいだろうが
否応なしに体験させられることによって
出来ることを自分で分かるチャンスでもあり

それは「自信」につながる

わたしに出来ることは

ひたすら心配しつつも

ありのままの長女を受け入れ
長女の可能性を信じていく

そして
これが先々のおかげになるようにと

祈りに祈るということに尽きる